「資産」という言葉の本当の意味──お金を貯め続けた先に、何が残るのか?

経済的自由に向けて

身近な方が亡くなり、少し立ち止まる時間がありました。

普段なら、頭の中は「いかに効率よく資産を増やすか」「どの銘柄に投資すべきか」といった計算式で埋め尽くされています。しかし、ふと訪れた静寂の中で、これまでの自分の行動と、手元に増えていく数字を眺め、言葉にできない重苦しさが胸を占めるようになりました。

それは、深い後悔です。

帰省を渋った代償

その方は、生前、もっと会える距離にいました。しかし、私は「仕事が忙しい」「今、帰省すると交通費がかかる」「投資効率が落ちる」といったもっともらしい理由をつけて、帰ることを渋りました。「今はまだお金を貯める時期だから」と、自分に言い聞かせて。

時間は待ってくれませんでした。結局、その方と最期の時まで会うことは叶いませんでした。

葬儀のために訪れた故郷は、昔と変わらず、何もない田舎でした。しかし、その何気ない風景、何の変哲もない自然の中で、目的もなく一緒に過ごした子供の頃の記憶が、鮮明に蘇ってきました。刺激的な娯楽などなかったはずなのに、なぜか心が満たされていたあの日々。

いま、手元には貯蓄という数字が残りました。しかし、その人と過ごせたはずの「最後の時間」は、二度と戻ってきません。お金は後からどうにでも増やせますが、失った時間は決して取り戻せない。その冷徹な事実に、私は今さらながら打ちのめされています。

「お金」という名の盲目

最近よく「準富裕層」といった肩書きや、純資産○○○○万円達成したという話を聞くようになりました。
でも思うのですが、準富裕層だとか資産○○○○万円とか肩書みたいなものがあっても、肩書という意味ではどうでもよいと思ってもいます。
肩書というのは現代の競争社会を生き抜くための防衛本能のようなものかもしれません。

しかし、ふと冷静になります。「お金、お金」と唱え続ける先には、本当に自分が望む未来があるのでしょうか?

同じ時期に、弟とも会いました。彼は私とは対照的です。子供を授かり、車を買い、犬を飼い、家を買う。客観的な家計の視点で見れば、「そんなにお金を使って大丈夫なのか?」と不安になるような散財ぶりです。しかし、彼が見せてくれた家族写真には、私がどれほど資産を積み上げても手に入らないような、眩しいほどの幸福が写っていました。

彼は「今」という時間を使い、大切な人と共有する思い出を資産に変えていたのです。

人生という資産管理

私は今、自分に問いかけています。

もし、このまま「節約」の名の下に、大切な人と会うことも渋り、趣味を我慢し、何かを体験するコストすら惜しんで10年、20年を過ごしたら、私はどうなるのか。

通帳の残高は増えているかもしれません。しかし、振り返ったときにそこにあるのは、空っぽの思い出という名の「負債」だけではないでしょうか。息を引き取る瞬間、どれだけお金が残っていても、それを自分自身で使うことはできません。自分が息を引き取るときに走馬灯のように時間が流れていったときに、全く思い出が出てこない、誰とも触れてこない、楽しんでこない、という人生はむなしさがありました。
人生の幕を閉じる時、残すべきなのは「数字」ではなく、その数字を何と交換したのかという「記憶」ではないかと思うのです。

「思い出」という最大の資産

誤解しないでほしいのは、お金が大切ではないと言っているわけではありません。むしろ、これからの人生を大切な人と生き抜くために、お金という道具は不可欠です。浪費を奨励しているわけでも、贅沢三昧をしたいわけでもありません。

私が伝えたいのは、「お金を大事にしすぎて、思い出という資産を築くことを忘れてはならない」ということです。

お金は増やすことが可能です。しかし、思い出は「その時、その人と、その場所で」しか作ることができない、唯一無二の資産です。どんなに高額な資産よりも、ふとした瞬間に脳裏をよぎる温かな記憶の方が、人生の最後には価値を持つのかもしれません。

これからは、もう少しだけ「何にお金を使うべきか」ではなく、「何に時間を使うべきか」を優先して生きていこうと思います。通帳の数字だけが増える人生ではなく、心の中の宝物が増えていく人生を目指して。

お金は使って意味を成します。
お金は引換券です。どう使うかは自分次第です。

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