はじめに:溢れる「自由」への違和感
高配当株投資をコツコツと続け、証券口座に表示される資産額や、定期的に振り込まれる配当金が積み上がっていくのを見るたびに、僕は自分自身に問いかけるようになりました。
「僕にとって、本当の意味での『経済的自由』とは一体なんだろうか」
今の世の中、YouTubeを開けば「資産5,000万円でセミリタイア達成!」「FIRE(Financial Independence, Retire Early)して自由な生活を手に入れた」と語るインフルエンサーたちの動画で溢れかえっています。満員電車、理不尽な人間関係、終わりの見えないタスク。そんな日常から解放され、南の島で悠々自適に暮らしたり、好きな時間に起きて趣味に没頭したりする生活。そうした発信を目にするたびに、「確かにそういう生き方もアリだよな」「一刻も早くそちら側へ行くべきなんだろうな」と、僕の心も揺れ動きます。
しかし、その一方で、どうしても拭いきれない強烈な違和感が、僕の心の奥底でくすぶり続けているのです。彼らが語る「何もしなくていい状態」が、果たして人生の正解なのだろうか、と。
何もしないことは「自由」なのか、それとも「虚無」なのか
仮に今、僕が十分な資産を築き、明日から一切働かなくても生きていける状態になったとしましょう。最初の数ヶ月、あるいは1年くらいは、あらゆる義務から解放された万能感に浸れるかもしれません。ですが、その先に何が待っているのかを想像すると、少し怖くなるのです。
もし自分に、人生を懸けて没頭できる趣味や、社会との深い繋がりがなかったとしたら、どうなるでしょうか。朝起きて、何をするでもなくネットを眺め、誰とも言葉を交わさずに一日が終わる。ただ予定が真っ白なカレンダーをめくり続けるだけの日々。さらに恐ろしいのは、リタイア生活を守るために「資産を減らしてはいけない」という強迫観念にとらわれてしまうことです。
お金を減らさないために、家の中に閉じこもり、極力支出を抑え、あらゆる新しい挑戦や経験、人との出会いを避けるようになる。社会との接点を絶ち、刺激もなく、ただ「お金を使わない生活」を延命させるだけ。果たしてそれを「自由」と呼べるのでしょうか。僕にはそれが、自由というよりも、社会からの緩やかな「孤立」であり、精神的な「牢獄」であるように思えてならないのです。
生きるということは、何かに心を動かし、誰かと関わり、自分なりの役割を見出すことでもあります。お金があるからといって、そのすべてを手放してしまうのは、あまりにも虚しい気がするのです。
投資だけに逃げ込むことへの抵抗と、職場の「反面教師」
だからといって、本業をおざなりにして投資だけに執着するのも、どこか違うと感じています。株式投資の世界だけで「僕は頑張っているんだ」と自己正当化し、目の前の仕事や現実から逃げ続けるのは、どこか不健全ではないでしょうか。
僕がこう思うようになったのは、会社にいるある50代の先輩を見たからです。残酷な言い方かもしれませんが、僕は彼を見て「絶対にこういう風にはなりたくない」と強く思ってしまいました。
彼は、おそらく同年代の平均よりはお金を持っているように思えました。
身につけている時計や持ち物は高級品ばかりで、「昔は社長をやっていたんだ」と、聞かれもしない過去の栄光をよく語っています。見栄を張ることで、自分の価値を証明しようとしているのは誰の目にも明らかです。
しかし、現在の社内での扱いはどうでしょうか。彼は周囲から尊敬されるどころか、誰からも相手にされず、若手社員からさえ邪険に扱われています。「これ、やっといてください」と、本来彼がやるべきではないゴミ出しやシュレッダー掛けといった雑用ばかりを押し付けられています。そして彼自身も、不満げな顔をしながら、結局はそれに従うしかありません。
彼には物質的な豊かさはあるのかもしれません。
しかし、そこには「精神的な自由」も「人としての尊厳」も全く感じられないのです。過去の肩書きにすがり、高級品という「物」でしか自分を保てない姿は、むしろ何かに強く縛り付けられているように見えます。
もし僕が、投資でお金を増やすことだけに固執し、仕事を通じた自己研鑽や人間関係を放棄したまま歳をとったら……最終的には彼と同じような、孤独で不自由な末路を辿るのではないか。そう考えると背筋が寒くなります。お金は本来、人を自由にするためのツールであるはずなのに、彼はどう見ても「不自由」の極みにいるのです。
サラリーマンという環境にある「莫大なレバレッジ」
もちろん、サラリーマンとして会社に依存し続けることにもリスクはあります。会社の業績が悪化すれば給料は下がりますし、不本意な異動だってあるでしょう。自分の人生の手綱を会社に握られているという点では、これもまた一種の不自由かもしれません。
しかし、会社というシステムには、個人の力では到底及ばない「莫大な資本」と「信用」が存在しています。このメリットを忘れてはいけません。
例えば、会社の経費を使って遠方へ行き、そこで大きなプロジェクトに携わること。会社の看板があるからこそ、普段会えないようなプロフェッショナルな人たちと出会い、対等に話をすることができること。自分一人のポケットマネーでは動かせないような規模の仕事に挑戦すること。これらはすべて、会社というプラットフォームがあるからこそ経験できる「資産」です。
仕事を通じて得る専門知識やスキル、苦労して築き上げた人間関係、そして成功や失敗から得る教訓。これらはすべて、僕自身の「人的資本」を成長させてくれます。株式の配当利回りを数パーセント上げる努力も大切ですが、自分自身の経験値という「利回り」を高めることの方が、長い目で見ればはるかに人生を豊かにしてくれるはずです。
会社に「搾取されている」と考えるのではなく、会社の環境と資本を最大限に「利用」して、自分の経験値を稼ぐ。そうした主体的な視点を持てば、サラリーマンとして働くことの意義は、これまでとは全く違った景色に見えてくるはずです。
プロのアスリートが戦い続ける理由
ふと、プロ野球選手などの一流アスリートのことを考えます。彼らの多くは、若くして一生遊んで暮らせるほどの資産を築いています。経済的な条件だけで言えば、彼らはとっくに「FIRE」を達成している状態です。朝早くから過酷なトレーニングで体を痛めつける必要も、何万人もの観客の前でプレッシャーに胃を痛める必要もないはずです。
それでも彼らは、泥だらけになって白球を追いかけ、打席に立ち続けます。限界まで自分を追い込み、怪我に苦しみながらも、またグラウンドへ戻っていきます。
なぜでしょうか。理由はきっとシンプルです。「野球が好きだから」「プレーすることが心底楽しいから」に他なりません。
彼らにとってお金は目的ではありません。大好きな競技を続けるための安心材料であり、より高いレベルに挑むための手段です。彼らの姿は、「働くこと」の本来の意味を教えてくれているような気がします。
働くことは、単にお金を稼ぐための苦役ではありません。それは自己表現であり、社会への貢献であり、何より自分自身の魂を燃やす喜びになり得るものです。もし僕が、彼らにとっての野球のように、心から没頭できる仕事や活動を見つけることができたなら、口座の残高に関係なく、それを一生続けていきたいと願うでしょう。
結論:「高配当株投資の鎧」をまとい、人生を主体的に選ぶ
これまでの思考を経て、僕は一つの結論に達しました。
僕はこれからも、自制心を持って節約し、高配当株投資をコツコツと続けていきます。しかしその目的は、決して「仕事を辞めて家に引きこもるための逃げ道」を作ることではありません。僕にとって、高配当株がもたらしてくれるキャッシュフローとは、この不確実な社会を生き抜くために身にまとう「強固な鎧(よろい)」なのです。
毎月、毎年、確実に入ってくる配当金。この「鎧」を着込んでいれば、会社に対して過度に媚びたり、怯えたりする必要がなくなります。上司からの理不尽な要求に対して、自分の信念に基づいた発言ができるようになります。失敗を恐れず、新しい挑戦に飛び込めます。最悪の事態が起きても、この鎧が致命傷を防いでくれるという圧倒的な安心感。これこそが、僕が投資に求める本当の価値です。
僕にとっての真の「経済的自由」とは、単に「働かなくていい状態」のことではありません。「働くか、働かないか」「どんな仕事を選ぶか」「誰と付き合うか」といった人生の重要な選択を、お金の縛りから解放され、自分自身の意志で自由に選べる状態のことです。
あの職場の先輩のように、見栄や過去の栄光に縛られて不自由な生き方はしたくありません。かといって、社会から孤立して無気力な日々を送るのもごめんです。
僕はこれからも、投資でしっかりと「鎧」を強化し、防御力を高めていきます。だが、それは城の中に引きこもるためではありません。その頑丈な鎧を着て、社会という広大なフィールドへ堂々と出ていくためです。
会社の資本を利用して様々な経験を積み、新しい人々と出会い、自分の世界を広げていく。時には困難にぶつかることもあるでしょうが、重厚な「高配当株の鎧」が僕を守ってくれます。そうやって、投資も仕事も、そして人生そのものも、すべてを自分のコントロール下に置き、楽しみ尽くしてやろうと思います。
何もかもを投げ出して逃げるのではなく、すべての選択肢を自分の手元に置く。それこそが、僕が投資の先に見据える、本当の自由の姿なのです。
また年を取れば考えも少しずつ変化が出てくると思います。その中でまた改めて何が大事なのかを長考しようと思います。

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